
「刺身」の語源——なぜ「刺す」と書くのか
生魚の切り身を「刺身」と呼びますが、なぜ「切る」ではなく「刺す」という漢字が使われているのでしょうか。
この素朴な疑問には、実は深い歴史的背景があります。武家社会の文化と、魚を区別するための工夫——2つの説から、刺身という言葉の成り立ちを探ってみましょう。
刺身という言葉の初出
「刺身」という言葉が文献に初めて登場したのは、室町時代の『鈴鹿家記』応永 6 年(1399 年)の記録です。そこには「指身 鯉イリ酒ワサビ」と記されています。
この時代以前は、生魚の切り身は「膾(なます)」や「打身」と呼ばれていました。それが室町時代に入り、「刺身」という呼び方が広まっていったのです。
説1:武家社会で「切る」が避けられた
刺身が登場した室町時代は、武士が社会の中心を担う時代でした。この時代、武家社会では「切る」という言葉が非常に忌避されていました。
なぜなら、「切る」は切腹や死を連想させる縁起の悪い言葉だったからです。
そのため、魚を「切り身」と呼ぶことは避けられ、代わりに「刺身」という表現が用いられるようになったという説があります。
当時の刺身の食べ方も、この説を補強しています。刺身を食べる際には、箸で刺して手で触らないようにカットしていたとされています。「切る」だけでなく「刺す」という動作も重要だったため、「刺身」という名前がふさわしかったのです。
説2:魚のヒレを刺して種類を区別した
もう一つの説は、より実用的な理由に基づいています。
切り身にしてしまうと、魚の種類が分からなくなってしまいます。赤身、白身を問わず、様々な種類の魚を一つの皿に盛り付ける際、どれが何の魚か判別できないのは不便です。
そこで、その魚のヒレやエラを切り身に刺して、「これは○○の魚です」と示していたというのです。この習慣から「刺身」と呼ばれるようになったという説があります。
ただし、この説については疑問を呈する意見もあります。ヒレやエラの部分は一般的に「身(肉)」とは考えられないため、「刺身」という呼び方の語源としては少し不自然だという指摘です。
地域による呼び方の違い
興味深いことに、刺身の呼び方は地域によっても異なります。
関西では「お作り」や「作り身」と呼ぶことがあります。これは「切る」という言葉を避けるという点では刺身と同じ発想ですが、より丁寧な表現として「作る」が選ばれたものです。
また、江戸時代前期には、魚以外の食材にも「刺身」という呼び方が使われていました。きじ、鴨、たけのこなどが「刺身」として提供されていた記録が残っています。
これらは魚の刺身の切り方や盛り付け方を模したものであり、刺身という言葉が定着していたことを示しています。
まとめ
「刺身」という名前の由来は、武家社会で「切る」という言葉が避けられたこと、そして魚を区別するためにヒレを刺していたという2つの説があります。
どちらが正しいかは定かではありませんが、どちらの説も当時の社会背景や食文化を反映したものです。
一切れの刺身を前にしたとき、その言葉の裏に600年以上の歴史が隠れていると思うと、少し違った味わいが感じられるかもしれません。
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参考文献・出典
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