
江戸の刺身事情——庶民が食べた魚、食べられなかった魚
現代の刺身の王様といえばマグロ。特に大トロは高級寿司店で一貫数千円することも珍しくありません。
しかし江戸時代、マグロは「下魚(げうお)」と呼ばれ、大トロは猫もまたいで通るほど価値のない部位でした。一方、現代ではやや地味な印象の鯛が「魚の王」として君臨していたのです。
江戸時代の刺身事情は、現代とはまるで逆転していました。
マグロは「下魚の中でも最下級」だった
江戸時代、魚には明確な格付けがありました。『古今料理集』などの料理書では、魚は「上魚」「中魚」「下魚」に分類されています。
上魚には鯛、鯉、鱒、白魚などの白身魚が名を連ね、下魚には鮪(マグロ)、鯖、鯵などの赤身魚や青魚が分類されていました。
マグロは下魚の中でも特に低い評価でした。『江戸風俗誌』には「まぐろなどは、はなはだ下品にて、町人も表店住まいの者は食することは恥ずる体なり」と記されています。
つまり、マグロを食べることは「恥ずかしいこと」だったのです。
なぜマグロは嫌われたのか
マグロが下魚とされた理由は、主に3つあります。
1つ目は鮮度の問題です。マグロは江戸から遠く離れた五島列島や三陸海岸で漁獲されていました。冷蔵技術がない時代、赤身は輸送中に劣化しやすく、江戸に届く頃には鮮度が落ちていたのです。
2つ目は脂の問題です。マグロには脂分が多く、当時の加工技術では扱いが難しい魚でした。江戸っ子は脂の少ないさっぱりとした魚を好み、脂の多い部位は敬遠されていました。
3つ目は縁起の問題です。マグロの別名は「シビ」。これが「死日」に通じることから、いつ命を落とすかわからない武士にとって、マグロは縁起の悪い魚でした。
大トロは「猫またぎ」
現代では最高級部位とされる大トロですが、江戸時代は「猫またぎ」と呼ばれていました。魚好きの猫でさえ、またいで通り過ぎるほど価値がないという意味です。
脂が多すぎて傷みやすく、保存も利かない。昭和初期までタダ同然で取引されていたというから驚きです。
「ヅケ」の発明がマグロを救った
マグロの評価が変わり始めたのは、江戸時代中期以降です。
きっかけは醤油の普及でした。千葉県の野田や銚子で濃口醤油の生産が盛んになると、マグロの切り身を醤油に漬ける「ヅケ」という保存技術が生まれます。
醤油漬けにすることで、腐ることなくマグロを江戸まで運べるようになりました。これが寿司の「マグロのヅケ」の起源です。
それでも、長年の「下魚」イメージは簡単には払拭されず、マグロが高級魚として認められるのは冷凍技術が発達した昭和以降のことでした。
鯛は「魚の王」として君臨した
マグロとは対照的に、鯛は江戸時代の魚の頂点に立っていました。
『本朝食鑑』(1695年)には「鯛ハ本朝鱗中ノ長(鯛は我が国の魚の長である)」と記されています。鯛料理だけを集めた『鯛百珍料理秘密箱』という料理書が出版されるほど、鯛は特別な魚でした。
武士に愛された理由
鯛が武士に好まれた理由は、その堂々とした姿にあります。
硬いウロコはまるで鎧のようで、尖った背びれは武器を思わせます。ピンと張った尾びれは勇壮そのもの。こうした姿が武家の美意識に合致していたのです。
さらに「めでたい」に通じる語呂の良さ、紅白の美しい体色も相まって、鯛は武家の祝い事に欠かせない魚となりました。
将軍家への献上
江戸時代、各大名は幕府への献上品として鯛を盛んに活用していました。1762年の『宝暦武鑑』によれば、88もの大名が干鯛を献上しています。
活きた鯛の需要も高く、「江戸城活鯛納制」という組織が設けられ、生簀船による調達網が整備されました。大和屋助五郎という商人は、駿河から瀬戸内海まで広範囲の漁村と契約し、活きた鯛を江戸まで運ぶ「活船(いけぶね)」を開発。これは当時の流通革命でした。
初鰹に熱狂した江戸っ子
江戸の刺身文化を語る上で外せないのが「初鰹(はつがつお)」への熱狂です。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」——山口素堂のこの俳句は、初夏の風物詩として初鰹がいかに愛されていたかを物語っています。
「女房を質に入れても初鰹」
江戸っ子は「初物」を異常なほど珍重しました。「初物七十五日」という言葉があり、旬の初物を食べると寿命が75日延びると信じられていたのです。
中でも初鰹は別格でした。「女房を質に入れても初鰹」という川柳が残るほど、初物の鰹を食べることは江戸っ子の「粋」の証だったのです。
1本30〜40万円の初鰹
初鰹は驚くほど高価でした。文政6年(1823年)には、初鰹1本に金4両という記録が残っています。
当時の町方奉行人の年収が2両程度だった時代。現代の価値に換算すると、1本30〜40万円という途方もない金額です。
それでも江戸っ子は我先にと初鰹を求めました。「勝魚」という字を当てて縁起を担ぎ、勝負事に勝てる魚として珍重したのです。
江戸と関西の温度差
この初鰹フィーバー、実は江戸限定の現象でした。
関西では瀬戸内海の新鮮な魚がいつでも手に入ったため、初鰹をそこまで珍重しませんでした。また、「名を捨てて実を取る」関西人気質には、高い金を払って初物を求める江戸っ子の姿勢が理解できなかったのかもしれません。
日本橋魚河岸——江戸の台所
江戸の刺身文化を支えたのが、日本橋魚河岸です。
1590年、徳川家康は江戸入城に際し、大阪・佃村から34名の漁師を呼び寄せました。彼らが獲った魚の余りを一般に販売したのが、日本橋魚河岸の始まりとされています。
「一日千両」の繁栄
元禄時代(1688〜1704年)になると、魚河岸は「一日千両の商い」といわれるほど繁栄しました。
江戸市中で一日千両が動く場所は3つあったと言われます。芝居町(歌舞伎小屋)、吉原(遊郭)、そして魚河岸。魚食文化は江戸経済の一大産業だったのです。
房総、相模、駿河、伊豆など各地から魚が集まり、100万都市・江戸の胃袋を支えました。
魚河岸と江戸文化
魚河岸の有力問屋は、豊富な資金力で江戸文化のスポンサーとなりました。
あの松尾芭蕉の経済的援助者だった杉山杉風は、御用魚問屋「鯉屋市兵衛」の主人でした。「鯔背(いなせ)」という言葉も、魚河岸の若者の髪型(ボラの背に似た形)が語源です。
日本で刺身文化が発展した背景には、こうした流通網と経済基盤の整備があったのです。
まとめ
江戸時代の刺身事情は、現代の価値観とは大きく異なっていました。
| 魚 | 江戸時代 | 現代 |
|---|---|---|
| マグロ | 下魚(最下級) | 高級魚(王様) |
| 大トロ | 猫またぎ(廃棄物) | 最高級部位 |
| 鯛 | 上魚(最上位) | やや地味な印象 |
| 初鰹 | 粋の象徴(1本30万円超) | 季節の風物詩 |
冷蔵・冷凍技術がなかった時代、魚の価値は「鮮度を保てるか」「縁起がよいか」で決まりました。現代の冷凍技術の発達が、マグロを下魚から王様へと押し上げたのです。
次にマグロの刺身を食べるとき、江戸っ子なら「恥ずかしい」と感じていたことを思い出してみてください。時代によって価値観は変わる——刺身の歴史は、そのことを教えてくれます。
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