
刺身を「切る」と言わず「引く」と言うのはなぜ?
料理番組や寿司職人の話を聞いていると、「刺身を切る」ではなく「刺身を引く」という表現を耳にすることがあります。
なぜ「切る」ではなく「引く」なのでしょうか。この言葉の違いには、武家社会の文化的背景と、刺身包丁の技術的な理由という2つの側面があります。
武家社会で避けられた「切る」という言葉
刺身が広まった室町時代から江戸時代にかけて、日本は武家社会でした。この時代、「切る」という言葉は切腹や斬首を連想させるため、縁起の悪い言葉として避けられていました。
結婚式などの祝いの席では、「ケーキを切る」を「ケーキにナイフを入れる」と言い換える習慣が今でも残っています。これと同じように、料理の世界でも「切る」という直接的な表現を避ける工夫がされてきました。
刺身の調理においても、「切る」という言葉を使わず「引く」という表現が定着したのは、この文化的背景によるものと考えられています。
刺身包丁の「引き切り」という技術
「刺身を引く」という表現には、技術的な理由もあります。それが刺身包丁の「引き切り」という技法です。
引き切りとは、包丁を手前に引きながら切る方法です。刺身包丁は柳刃包丁とも呼ばれ、30cm前後の長い刃渡りを持っています。この長さを活かして、包丁の刃元から切っ先まで一度の動作で滑らせるように切ることで、魚の繊細な組織を傷つけずに切り分けることができます。
一方、押し切りは硬い野菜などに適した方法で、包丁を前に押しながら切ります。柔らかい刺身を押し切りで切ると、魚の繊維が潰れてしまい、切り口が粗くなってしまいます。
引き切りで切った刺身は、切り口が滑らかで光沢があり、口に入れたときの食感も繊細になります。この技術的な特徴から、「刺身を引く」という表現が自然に使われるようになったのです。
「引く」という言葉に込められた意味
「刺身を引く」という言葉は、単なる言い換えではありません。
武家社会の文化的配慮と、刺身包丁の技術的な動作の両方を反映した、日本料理ならではの表現です。「切る」という言葉を避けながら、同時に調理の技法そのものを的確に表している点が興味深いところです。
寿司職人が「刺身を引く」と言うとき、そこには長年培われてきた技術と文化への敬意が込められているのです。
まとめ
「刺身を引く」という言葉には、武家社会で「切る」が忌み言葉だったという文化的背景と、刺身包丁の引き切りという技術的理由の2つが重なっています。
次に刺身を食べるとき、その一切れに込められた言葉の歴史と職人の技を思い出してみてください。いつもの刺身が、少し違って見えるかもしれません。
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参考文献・出典
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