
サーモンの刺身は「新参者」——日本でいつから食べられるようになったのか
回転寿司で最も人気のあるネタは何でしょうか。
マルハニチロの調査によると、「サーモン」が14年連続で1位を獲得しています。脂がのった濃厚な味わいは、子どもから大人まで幅広い世代に愛されています。
しかし、このサーモン刺身の歴史は意外と浅く、日本で広く食べられるようになったのは1980年代以降のことです。なぜ昔は生で食べなかったのか。その背景には、寄生虫の問題と養殖技術の発展がありました。
天然鮭と寄生虫——なぜ生食を避けてきたのか
日本近海で獲れる天然の鮭(シロザケ)は、古くから重要な食材でした。
しかし、その食べ方は焼き鮭、塩鮭、ルイベなど、加熱または冷凍処理を施したものが中心でした。生で食べることは避けられてきたのです。
その理由は、天然鮭にアニサキスをはじめとする寄生虫が多く寄生していたからです。
天然鮭の寄生虫リスク
天然の鮭は、海でオキアミや小魚を捕食します。これらの餌にはアニサキスの幼虫が寄生していることがあり、食物連鎖を通じて鮭の体内にも蓄積されていきます。
特に日本で漁獲されるシロザケ(秋鮭)は、回遊範囲が広く、アニサキスに感染する機会が多いとされています。そのため、伝統的に生食は危険とされてきました。
伝統的な食べ方——ルイベの知恵
北海道のアイヌ民族には「ルイベ」という伝統的な調理法があります。
ルイベとは、鮭を凍らせてから薄切りにして食べる料理です。これは実質的に冷凍処理による寄生虫対策になっていました。
先人たちは、科学的な知識がなくても、経験から安全な食べ方を編み出していたのです。この知恵は、現代の冷凍によるアニサキス対策と同じ原理に基づいています。
冷凍による寄生虫対策については、「冷凍マグロvs生マグロ、本当に味は違うのか?」でも解説しています。
ノルウェーからの革命——養殖サーモンの登場
1980年代、日本のサーモン事情を一変させる出来事がありました。
ノルウェーが養殖サーモン(アトランティックサーモン)を日本市場に売り込み始めたのです。
ノルウェーの「プロジェクト・ジャパン」
1985年、ノルウェー漁業大臣トール・リストー氏率いる代表団が来日し、「プロジェクト・ジャパン」を立ち上げました。
日本は世界最大の水産物消費国であり、刺身・寿司文化を持つ巨大市場として注目されていたのです。当時、マグロの供給不足が課題となっており、高品質なノルウェーサーモンを代替案として提案しました。
しかし、当初は「鮭を生で食べる習慣がない」という日本の食文化の壁に直面しました。高級寿司店への売り込みは受け入れられず、ターゲットを回転寿司へと変更することになります。
養殖サーモンの安全性
ノルウェー産の養殖サーモンには、決定的な強みがありました。
それは、アニサキスのリスクが極めて低いことです。
養殖サーモンは海面の生け簀で育てられ、人工飼料(ドライペレット)を与えられます。この飼料は高温で加工されているため、アニサキスが混入することがありません。
つまり、養殖サーモンはアニサキスに感染したオキアミを食べる機会がなく、寄生虫のリスクがほぼゼロなのです。これまで養殖サーモンによるアニサキスの食中毒事例は報告されていません。
養殖魚とアニサキスの関係については、「アニサキスの正体と対策——刺身を安全に食べるための科学」で詳しく解説しています。
回転寿司とともに広まったサーモン文化
養殖サーモンの安全性と安定供給が確立されると、1990年代以降、日本でのサーモン刺身消費は急速に拡大しました。
回転寿司チェーンの功績
サーモン普及の立役者となったのは、回転寿司チェーンです。
1992年、ノルウェーは日本の大手食品会社ニチレイと提携を結び、5000トンのサーモンを「寿司ネタとして」売り込むことに成功しました。バブル経済崩壊後のデフレの波に乗ってやってきた回転寿司ブームが、サーモン普及の追い風となりました。
養殖サーモンは価格が安定しており、脂がのった味わいは万人受けしやすい。さらに、オレンジ色の見た目は回転レーンで目を引きます。これらの特徴が、ファミリー層を中心とした回転寿司の顧客ニーズにぴったり合致しました。
「サーモン」という名前の誕生
興味深いのは、「サーモン」という呼び方自体がこの時期に生まれたことです。
「鮭=火を通して食べる」という固定観念があったため、ノルウェーは「サーモン=生で食べるもの」という新たな概念を生み出しました。大西洋産の養殖魚を太平洋産の天然鮭と区別することで、消費者の抵抗感を払拭したのです。
伝統的な寿司屋との温度差
一方、伝統的な江戸前寿司の世界では、サーモンは今でも扱わない店が少なくありません。
その理由の一つは、江戸前寿司が確立された時代には、安全に生食できるサーモンが存在しなかったこと。もう一つは、脂の強いサーモンが江戸前寿司の繊細な味わいとは相性が悪いと考える職人が多いことです。
日本の刺身文化の歴史については、「刺身文化はなぜ日本で独自に発展したのか」をご覧ください。
現代のサーモン事情——人気No.1の座
現在、サーモンは日本の寿司・刺身文化に完全に定着しています。
マルハニチロの調査では、回転寿司で「よく食べるネタ」としてサーモンが50.6%の支持を集め、2位のマグロ(赤身)36.3%を大きく引き離しています。
サーモンの種類と呼び方
店頭で見かけるサーモンには、いくつかの種類があります。それぞれの特徴を知っておくと、選ぶ楽しみが広がります。
- アトランティックサーモン:ノルウェー、チリ産が主流。養殖の代表格で、脂のりが良い
- トラウトサーモン:ニジマスの海面養殖。「サーモントラウト」とも呼ばれる
- キングサーモン:ニュージーランドなどで養殖。大型で脂のりが特に良い
いずれも養殖であれば、アニサキスのリスクは極めて低いと考えてよいでしょう。
まとめ
サーモンの刺身は、日本の刺身文化において比較的新しい存在です。
- 天然鮭はアニサキスが多く、伝統的に生食を避けてきた
- 1985年、ノルウェーの「プロジェクト・ジャパン」が日本市場開拓を開始
- 養殖サーモンは人工飼料で育つため、アニサキスリスクがほぼゼロ
- 回転寿司の普及とともに、サーモンは人気No.1のネタに定着
今や当たり前のように食べているサーモン刺身ですが、その背景には養殖技術の発展と、寄生虫リスクを克服した科学の力がありました。
次にサーモンの刺身を食べるとき、この40年ほどの歴史に思いを馳せてみるのも一興です。
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参考文献・出典
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